私の当たり前の3つの幸せ
1、家族との交流。
2、友だちとのひととき。
3、その人たちと一緒にご飯が食べられる。
同じ価値観でいたい
妻は静かに暮らしたい。
僕は熱く語りたい。
表面は違うが、ベースになる価値観は、同じでありたい。
時間よ止まれ 己の「知的好奇心」に賭ける
時間が足りない?時間というやつは本当に本当に“罪なやつだ”
勉強の時間が足りないのだ。なんで学生の時はろくすっぽ勉強しなかったのに今頃になって欲求がたかまるのか。
知的好奇心で奴だ。
この歳になって知識を吸収したいのだ。
“少年老いやすく学なり難し”
「父の惜別」と「僕の後悔」を乗り越える
母は57歳で他界した。
父は母を若くして亡くし、仕事と子育てに忙しかった母になにもしてやれなかったと悔やんだに違いない。
父はそのことに関して何も言わなかったが、供養の為に「四国八十八箇所巡り」を行脚した。
父と母は『二人で北海道にでもゆっくり回りたい』と言っていた。
僕は『行くなら早く行かないと後悔するよ』と言っていた。
結局、それは叶わなかった。
旅行会社のチラシ広告を見てそんなことをふと思った。
今の僕には、女房と旅行に行くという余裕はないが、いずれは連れて行ってやりたいと思う。娘も一緒に。
だが、それを目標に掲げるのに、ためらいがある。
父母が果たせなかったことをやってしまおうとする罪悪感のようなものが。
これを手放したい。
つまり、それを実現させることで、父母はあの世で喜んでくれる。僕らが幸せでいること。それがいちばんの供養になるんだと思いたい。
“聖なるもの”を見つける。vol.1 妙なる調べ “名状しがたいすごいもの”
風呂に入っていたら、隣接している洗面所から、娘のハミングが聞こえてきた。母親にドライヤーで髪を乾かしてもらっているのだ。その調べは鼻歌交じりで、流行歌なのだろう、子供なので音程は微妙にずれて、それが揺らぎになって。湯に浸かりながら聞いているとなんとも言えない落ち着いた気分になる。そして、それは、どこか神々しい調べなのである。
母と娘。髪を溶かし、溶かされ、その強い結びつきを感じた。
やさしい様で頓馬。だが、自己肯定感は下げるな。
相手の為に良かれと思ってやることが実は思い過ごしであることが多い。
こちらは、優しさでやったことが、必ずしも相手のためになるとは限らないということなのだ。
自分本位で優しくするのが良いと思ってやるのは独りよがりというものだ。それをした時に相手がどんな気持ちになるのか想像すること。余計なお世話だと思うかもしれないし、相手にとって負担になるかもしれない。それは自分がやりたいからでそんな自分が良いと思っているからやる行為ではないのか。行う前に考えてからやろう。それが出来ないのは頓馬だからだ。こちらの思いと相手の思いが一致すれば良いが多くの場合は考えが交差する。それがトラブルの原因になるのだ。ではどうすれば良いか。相手の意向を確かめることだ。事前にそれを確かめることが難しい場合は、そのことをちゃんと言動でフォローする。それでずいぶんと関係も改善されるのではないか。
大切な人とのやりとりはお互いに思いやりを持つことではないだろうか。誤った自分の価値観に基づく相手に対する言動ではなくて。
ただ自分にはこうと思ってしまうと周りに対することが見えなくなってしまい、最後まで行ってしまうことがある。その事が失敗に終われば悲惨な結果が待っている。自分の要求に従うのは良いがそのことで何度か手痛い経験もした。しかしながら、このある種の思い込みも良い方向に転べば、価値を生み出すことになる。決して失敗に終わったからと言って自己肯定感を下げてはならないのだ。むしろ他の人たちがやれないことによくぞ挑戦したと思って良いのである。得たものも必ずあるはずである。そこには自己を表現したいという根源的な欲求があり、そのことに正直なだけである。
誰もが自分の価値観を信じていて、それを邪魔されずに気持ちよく暮らしたいと願っている。やりとりしてみてどうも通じない相手だと判断した時は距離を置くことも大切だ。すなわち逆にいうと大切だと思う人たちには、愛を持って接することが肝要だ。つまり相手との距離感と自分本来の価値を高めていくことのバランス感覚を持つことが重要だ。
価値判断は親の影響から?
朝食に娘がパンにピーナツバターを塗ってその上からチューブ入りのホイップクリームをたっぷりかけて美味しそうに食べようとしていた。
それを僕は間近で見ていたのだが、その時こう言いたくなった。
『おいおい、朝からホイップクリームかけすぎだと思うけど!!』と。
ある時、僕がある人気のカフェに連れて行った時、『この店のこれが有名やねんで』と言って勧めていたのが、パンケーキにそれこそ“山盛りのイップクリーム”を乗せたものだった。娘にはそんなもんのやめとけ的なことを言いながら、別の場面で、それを勧めている自分!矛盾!。娘はそこまで意識はしていないだろうが、自宅でそれを美味しそうに食べていたのは、前に連れて行った流行りのカフェで『美味しいやろ』と勧めて、“山盛りのホイップクリーム”をカフェで食べるのは良いことなのだと僕が刷りこんだからではないだろうか。考えすぎか。『パパ見て!とても美味しく食べてるよ♪』とのメッセージではなかったか。そこまで娘は意識していなかっただろうか…。
父として、流行りだからといって、情報を鵜呑みにせず、何が娘にとって良いのかよく考えたい、
でも『よかったなー。美味しく食べれて』と思いたい。
本当に自分が美味しいと認識することと、これが美味しいと刷り込まれる事とー
多分両方なんだろうな。
バランスよくしながら、正しい判断力を身につけたい。
そして、すくすくと娘が成長してほしいと願っている。